高湯温泉

安達屋の歴史

Seasonal plan

安達屋旅館、温泉の歴史

慶長十二年、今から約四百年前伊達家の家臣、初代菅野三四郎の夢枕に一人の行者が現れ 「武門を解き西の山に温泉を探し諸人のために尽くせ」とのお告げがあり、 山中を幾日も探し歩いた所、大きな岩がある荒涼とした所にたどり着きました。 岩を取り除こうとしたところ不思議と金剛力が出て岩は砕け散り温泉が湧き出たというのが、 安達屋旅館の温泉の由来との古文書が残されております。 この「奥州信夫郡庭坂村高湯の縁起」は、その古文書を現代語訳したものです。

奥州信夫郡庭坂村高湯の縁起

高湯を開いた方の俗名は三四郎と言い、後に号を般若坊と名乗りました。 彼は修験の修行をしている人でした。彼の姓は菅野といい、奥州安達郡木幡村(現二本松市木幡)の生まれです。 幼い時に母を亡くし、一人父に育てられました。

彼は、最も孝行な息子として有名でした。彼の性格は生まれつき意思が堅く、心は広く明るく、時には激しいものでした。 また、彼は行動力があり、その肉体は一度怒ると大鍬をも割くほどでした。

人は彼を小樊噲といいました。 それは、あらゆる兵法を会得し、あらゆる技を併せ持ち、曾ては孔子の教えから老子の教えまで学び、 諸子百家のあらゆる学問を修め、どの学問にも通暁しておりました。 慈しむ心、耐える意思を持ち、生きとし生けるものを憐れむやさしさがあります。 たとえば、ぼうふらやあぶらむしのようにうごめき動くものでさえ、その死を耐えられない性格でありました。 ですから当然鳥や獣の死をもがまんできませんでした。 こうした人柄であるので、郷里の人々からお手本として見習うべき人と慕われていました。

彼の父は、菅野刑部国安といいます。 当時の世は、伊達氏、豊臣氏の天下にありました。 天正年間(一五七三年~九二年)、伊達左京大夫輝宗は武力で奥羽を併呑し、武名を天下に大いに轟かせていました。 暫く奥州二本松城に住み、その意気は宇宙を覆うほどでありました。 この時、国安は三十騎の大将でした。 その軍功は群を抜き、その名は遠く隅々まで響いておりました。


二本松木幡弁天
この家譜はここから始まります

そんな時、同国塩松の城主畠山三某は輝宗と激しく対立しました。 ある時、畠山は手下十三人と共謀し、輝宗を陥れようとしました。 つまり、輝宗に降伏人としての礼をとっていると見せかけましたので、輝宗は気を許してしまいました。 そこで畠山は輝宗を生け捕りにし、俱州河原で殺しました。 政宗は畠山を討つために急いで追い、瞬く間に塩松の城を落としました。 時に天正十三年、乙酉の年(西暦一五八五年)十月八日でした。


佐原慈徳寺(輝宗首塚)
伊達輝宗が火葬にされた寺

輝宗の法名は覚範寺院殿性山受心大居士と言います。 この日、輝宗の功臣、遠藤山城守・須田伯耆守・馬場右衛門の三人は主を追って切腹しました。 つまり、次の世でも輝宗に仕えようという気持ちからでした。 また、国安等二十数人が同日、臣下の関係を解き、役を辞し、それぞれ縁を頼って解散しました。 国安は木幡村に隠居しました。そして彼は農民となりました。 井戸を掘って水を確保し、自ら耕して食糧を得ました。 その暮らし向きは甚だみすぼらしいもので、そのような生活で日々を過ごしていたのです。

それから二十三年、開祖が十八歳の時、慶長十二年、丁未の年(西暦一六〇七年)二月十日、父国安が逝去しました。 法名は勇山鉄心居士です。

国安は臨終の間際に開祖に頼むように言いました。 あなたは、これから私が言うことをしっかり聴きなさい。 つまり、我が主君の輝宗殿は歴史的な名君と言われていますが、理不尽にも、畠山に謀られて夢の中の人になられました。 しかし、是は玉が欠けて壊れたこととは違います。 亦、私の家来は数多くおり、一人一人が千人に相当するような武威がありますが、突然、狡猾な敵兵に欺かれて、眼前で主君を失いました。 これは人の行うべき五つの道を厳しく諌めて、春秋時代の大盗賊盗跖でさえもしなかった所業であり、 ただ、天下の人の嘲りを免れない所業であります。 亡くなった主君は、私の不忠を痛く恨みに思われるのではないでしょうか。 それがあの世に行っても苦しみは続くことでしょう。何と悲しいことでしょうか。

この故に、私は禄を廃し、役を辞退し、ただ、蕨を食べ、水を飲み、そんな毎日をすごし、そして草木とともに朽ち終わることでしょう。 亦、退役して我が家の歴史を振り返ってみると、このように、農業に従事し武業を永く退いていることは、 亦、武門にとってはもっともいけないことなのです。 あなたにお願いします。私が死んだ後、是非仙台の城を訪ねて、政宗公に仕え、わが武士としての家を再興してください、と。 そう言い終わって亡くなりました。父の最後のお願いを聞いて、祖は茫然と自失し、涙の雨を降らせ、そして頭を垂れて承諾しました。 そして祖はとうとう木幡に別れを告げ、仙台に赴くことにしました。

まず、信夫郡鳥渡村の親戚を訪ね、ここで暫く憩いました。ここでいろいろな武術を試みました。 限られた時間の中でいろいろな武術を試すことで大忙しでした。 ある晩、不思議な霊夢をみました。その夢は私に語りました。 白馬に乗って仙台に赴くと、途中に山があり、その山は高く、上部は平らかで雲の中にあり、峰はみえません。 しかし、その山を乗り越えましたが、それはあたかも空を翔ているようでした。 人も馬も汗が津々と湧き出て袂を絞るほどでした。 漸く山の中腹に至り、清い泉が湧き出る所があり、水を汲んで飲み、 静かに高みを見ると、普通の場所と異なっており、枯れ木や岩が奇怪の形をしており、 切り立った山々が連なり、絵画のような碧なす山々のようでした。 山々と山々の間は絶壁の谷間で、西は高く、東は低い岩山でした。 それは猛虎も蹲り、玉龍もとぐろをまくほど、険しくそばだつ山々でした。 その中央に凸様の岩があり、高さ三丈ほど、幅五十尺ほどで、須弥檀を彷彿させるものでした。

一人の高僧がおりました。毅然と一人坐っています。 修行僧のように法衣を着、その姿は毅然として厳かで、その顔は満月のように欠けたところはありません。 普通とは異なる香りが渓に満ちています。その右手には金の錫杖を持ち、左手には経典を握っています。 その姿は礼儀に適い穏やかで、静に座禅を組んでいます。 祖はこの威厳のある姿を見て、感動する気持ちと不思議に思う気持ちと併せ思いながら、 自然と岩肌に頭を下げ、黙って手を合わせていました。

その時、檀上に、極楽浄土に棲み美しい声で啼くという鳥の声が響き、その声が祖に告げました。 ようこそお出で下さいました。あなたが来るのをずっとお待ちしておりました。ずいぶん遅かったですね。 私がこの山に住んで八百余年になります。その間、この谷に温泉を湧かせ、末期の難病の人たちを治したいと考えていました。 あなたは是非宿願である温泉の基を開いてください。その山を毛飛と名づけ、湯を高湯という名にすると良いでしょう。

祖は奇異の念を抱き、すぐに上座に向かって訊きました。あなた様はどなたですか。 人間でしょうか、それとも人間でないものなのでしょうか。上座から答える声がありました。 「私は役の行者である。」と。祖はこの言葉を聞いて、身も心も落ち着けて行者に言いました。 「私は元々武を好む男です。どうしてそういうことに関係できましょうか。」すると行者が言いました。 「あなたはもともと武には縁がありません。縁があるのは湯なのです。 何事も、縁があれば成し遂げることができます。縁がなければ成し遂げることは難しいです。 これは私の五種類の眼力が照らす所です。私の命令に背かないように。」

祖は亦、行者に言いました。 「縁が有るということは、聞くべきなのでしょうか、そうではないのでしょうか。」と。 行者が言うには、「聞くことが必要ならば、説くべきです。私は千古の昔を考えると、あなたはこの国の王となる人です。 この上もない素晴らしい心を発して、仏様の戒律を持っており、慈悲の心はすべてのものを憐れみ、 不公平なく平等であることは、他に二つとないものですと。 そしてまた自ら法を説いて人の悩みを癒し、悟りの彼岸に去って再び迷いの生死海に退しないという医王・善逝の一丈六尺の像を彫り、 この山に安置し、専ら万物の生死や老いの病が治ることを祈りました。 更に、この谷に薬湯を湧かして、当時の医学では治るのが難しいといわれた難病が治ることを祈りました。 王が没して後数億年が経ち、慨にここに薬湯が涌く時となり、湯は医王善逝の悲願の海から湧き出て、 あなたの昔からの願いに報いようとするだけになっているのです。こうした理由により、縁がこの山にあるのです。 あなたがもし、無縁の武を求めるならば、それはただ仏陀の御心にそむくだけでなく、あなたのもともとの誓いに背くことになるでしょう。 あなたはこのことをよく考えなければなりません。」

祖は行者の話を聞き、未だかつてだれもなしえなかったことを体験しました。また、行者に次の事を言いました。 「この地の雲のかかった高山は、遠く人里を離れており、私はまたどうしてこの石の多い痩せ地から温泉を生じさせればよいのか、 一人心配しております。」その時行者は左手に経巻を持ち、祖に授与して言いました。 「この経を持ち、毎日三百巻を怠らずに読むことを日課としてやっていくことができる者は願い事が成就するであろう。 徳は一人では立ちません。仁ある人には必ず助けてくれる人が出てきます。あなたは、疑うことなく信じ、身命を惜しんではいけません。」

祖は言いました。「経典の名は何というのですか。」行者が言いました。 「魔詞般若波羅蜜多心経といいます。」祖がいいました。「経典に書かれた仏の説を聞くべきでしょうか。」行者が言いました。 「般若心経は説明がありませんし、示しもしません。経文を口にすれば、仏と結びつき、極め尽くすことができ、 煩悩に束縛されて迷っている人も一心に経典の首題を称え念ずれば十分なのです。」 祖がいいました。「経典の首題を解き明かす言葉は何であるか知ることができるのでしょうか。」 行者が言いました。「首題の最初の八文字は梵語ですが、 事由を照見して正邪を分別する心である大智恵が彼岸に到達したという意味に解釈できます。」 般若波羅蜜多心経は数百巻あり、正宗中の正にあたります。それ故に、心経と名づけられているのです。


鳥渡観音寺(本殿)
ここで、霊夢により仙台ではなく西を目指しました

これは漢語です。大智恵というのは、本当に何もないこと、形のないところで、 互いに関係しあいながら、仏と一体となれることを意味します。 到彼岸というのは、宇宙の理法を悟りきり、一切を知了するようになることを意味します。 是が首題の意義を簡単に現したものです。 誠をもって、日々般若心経を読み、日々最高の真理の認識を得ようとする者は仏陀の領域にある者です。 日々般若心経を読んでも、日々最高の真理の認識を得ようとしない者は俗世間にしかいられない者です。 しかし、般若心経に仏陀の世界に行けるか俗世間に留まるかの因果があるわけではありません。 なぜならば、般若心経には生仏のかたちがあるわけではないからです。それは空虚に譬えられます。 どうして境界を分けることができましょうか。できないのです。 迷うこと、悟ること、異なっているようですが、実は一本の肘のようなもので、自ら折り曲げたり、伸ばしたりします。 この領域に達すれば、悟りにいたる道は平易です。 このことの理解ができないと、必ずすべてのものと競争が生じ、悟りは遠いものになります。 このために、人は悟りに到ることができず、また理非のわからぬ愚かであれば、この経を人に説くことは許されません。

この経典とあなたとはまた前世からの宿縁があるのでしょう。 経典の力が微かに薫れば、願い事が成就しないものはありません。ですから、あなた、よく努めなさい。」 祖はこの話を聞き、身も心も、死んだようになりました。つまり立って拝もうとすると、はっきりと夢から醒めるのです。

このような状況が三晩続きました。毎晩同じように夢の中で告げられたのです。 祖はよく考え、夢のお告げを記録しました。不思議な思いでした。 祖はすぐに武業を捨て、深く夢の告げる世界に入り浸りになりました。 祖は仏の教えを信じる心を掲げ、彼の心は果てしなく広く、どこまでも高いものでした。

そして遂に、庭坂を訪ねすぐに西嶽に登りました。山は万尋の高さにある雲よりも高く、険しく聳えています。 老いた松や枯れた柏が枝を連ねて、天を覆っています。邪悪な虫や蛇などが四方に散って歩き回っています。 谷には天井の川ほどではありませんが、水が滔々と流れています。奇岩や怪石に水がぶつかり、雷のような音をたてています。 獅子や熊などが高い所でも、低い所でも吼えています。


不動様
災難から守る

祖はようやく山の中腹まで登りました。そうすると、湯が涌いているのが見えました。 翠色の岩や碧色の水が全く夢の世界のことのようでした。 この時、慶長十二丁未の年(一六〇七)七月、祖はこの地に草の庵を編み、住みました。そこで、般若心経を読みました。 来る日も来る日も、一日に三百巻を念じました。そうして一月余り経った時、突然、不思議な力を獲得しました。 そこで試しに一丈余(三メートルを超える)石を動かしてみますと、木の葉よりも断然軽く感じたのです。 はじめて、夢のお告げが嘘でないことがわかりました。 そこで、大いなる霊の宿った手を持ち上げて、岩を崩し、石を浚い、鐘馗様のような力を振るって、谷を埋め、高山を平にし、 般若心経の力は微かな薫りだが、大石でできた窟を裂き、念願が叶い、温泉の源を開くことができました。


般若坊の錫杖

この時から高湯の名は四方遠くまで轟き、この時から湯に入る人はあらゆる方角から市をなし、 賑やかになり、夢のお告げは、善を勧めたり、悪を誡めたり、またそれは仄なものであったり、明らかなものであったりとしましたが、 高湯の湯はあらゆる病を均しく治します。 過去から現在までの悲願は今ここに十分に満ち足り、高湯の成すべき事は今ここに完了しました。

明暦四酉の年(一六五八)の春二月、祖は俗世間を遁れて、修験の行者となり、名を般若坊と改めました。 そして、専ら、昔小角の辿った跡を訪ね、昼も夜もお経を読み、念仏を誦えることを止めませんでした。 そうすると、一心不乱に修験に励む境地に達することができました。 つまり、火を防ぎ、雨乞いをし、山川の精を呪い、病魔を捕縛するなど、彼の修験道は枚挙に暇ありません。

貞享三丙寅の年(一六八六)七月一日、祖は軽い病気に罹りました。 同じ月の十日の朝、沐浴し、衣服を洗い、端坐して、合掌し、 般若心経を三巻唱え、西を向き、亡くなりました。 享年九十七歳、法名は知温院困叟了徹居士といいます。
以上で高湯縁起は終わりです。


鳥渡観音寺(山門)
当館と深い関係、檀家

そもそも、冷たい池水が仁・礼・智などの八種の徳を備え、四つの大きな川に分かれることは、 私が思うには、阿那婆達多龍王の威徳によるものであり、本より水が池の底に涌くためではありません。 温泉の薬湯が冷熱を分けて、あらゆる病気を治すことは、当然、大道心菩提薩埵(菩薩)の善巧によるものであり、 昔から今まで、湯が山の岩場に涌くことによるものではありません。 とりわけ、温泉の湯が湧き出ることは大昔からあることとは聞きません。 なぜかというと、それは、昔の人は根っから頑丈で、風の寒さや気候の暑さなど外からの害を受けませんでした。 たまさか病める人がいても、ただ鍼灸を用いて、他の治す力を借りるのではありません。ましてや湯治は違います。

中古より現代まで、人の器が次第に衰え、心身共に仏の教えと違って来ており、 人の身体を形成する地・水・火・風の調和が崩れ、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲の七つの感情が乱れてきています。 そのため、たとえ、薬草を喫っしても、却って病の根がはることがあります。 痰や癪・疥(おこり)・癩(ハンセン病)・瘤(腫物)・疽(悪瘡)等は鍼灸や薬を用いて治るものもありますが、 歳月がかかり、ますます治り難い病になることもあります。


薬師堂
心身全ての病を救うといわれています

こうした時に、一切衆生が成仏をし尽くすまでは成仏しないという菩薩の大きな慈悲の心のように、 あらゆる方面に慈悲の心を布き、つまり険しい山々や川辺に温泉を涌かせて、治療を試みるのです。 それは至れり、尽くせりなのです。

ここに高湯の開祖、般若坊は、武門に生まれ、生まれつき性格は雄々しく、 また朗らかで、測ることができないほどの器の持ち主でしたが、慶長年間(一五九六年~一六一五年)に、突如として夢のお告げがあり、 そのことに感じ入り、信じて、武士であることを辞め、ただちに、この山に入りました。


地蔵
当館先代が建立しました。全ての救い。先代を祀っています。

一握りの萱を縛り、神が宿る宅とし、般若心経を念ずることが一昼夜に三百巻とすることを誓い、 夢のお告げとの約束を厳しく守ろうと勤め、終に岩に穴を押し開き、温泉の源を開けました。 それはまさに、大権の聖が、だれにでもわかるようにその跡を示しました。 それは、だれもが共通して願っていたことに報い、多くの薬草のそれぞれの効能を施すことです。

これ以前に、二子塚村のある人が、山に登って鹿狩りをしている時に初めて湯が湧き出ているのを見ました。 しかし、渓流の水と合流して、それはまさに夏水のようでした。 彼は、近在の人にこのことを伝えましたが、一人として湯に入った者がいたとは聞きません。


菅野家初代の墓
薬師堂後ろに初代を含め46の石碑があります

近年、祖が温泉の基を始めるに至り、ようやく湯に入る人が、まるで蟻が羊肉の匂いに群がるように、列をつくって訪れています。 夢のお告げにあったように、徳のある人は一人では立たず、仁のある人は必ず助けがあることを知るべきである。 この言葉は、妄に申しませんでした。開祖は、生きている間、夢のお告げのことを他言しませんでした。 ただ、ある書に書きとどめ、文櫃に納めたのです。そして祖が亡くなってから寓々(たまたま)文櫃を開いたところ、 この文章があることがわかり、これを見て、初めて開祖の業績が普通でないことを知ったのです。

それから数十年が過ぎました。それにしても、この記録が虫喰いのため、あちこちが破れていることは何と惜しいことでしょう。 私は才能がありませんが、この状況を嘆き、ため息をつき、結局、やむをえず、 この記録の前後に開祖の誕生からの一生や一族・一家の浮き沈みの歴史や謂われなどを補筆して、一遍の通史としましたのは、 これをもって高湯温泉の縁起に用い、また、今後長く伝えて後世の人々にこの伝聞を残したいと思ったからです。

この記録を残したのは、貞享四丁卯の年(一六八七)七月上旬です。

其の銘に曰く
菅野家の初代開祖は高湯温泉を開きましたのは、振り返ってみると、慶長十二丁未の年でした。 眠りの裡に、聖噂が現れ、夢の中でお告げがありました。目が醒めて、祖は仏の名号を唱えました。 人は、競い合うように、災禍を祓います。鬼は群がって吉祥を守ろうとします。 おしなべて、温泉を湧き出したことは、祖が無量の智慧でもろもろの煩悩を断絶できるお釈迦様のようであり、 弥陀の願いの広大な海のような優しさを分かち合うことのようで、祖は医王と称されました。 武門の栄誉あるところから脱することは難しく、深い思し召しの仏門に入ることは易しいのです。 一人一人は富士山の麓の岩に銘を刻みます。その徳は、岡の上の庭の景色に現れます。 蘭の花は千年も咲き続けます。桂の実は長くその遺伝子を伝えます。 幸いにも修行僧に遺跡を記させましたので、わずかに瀧水をかけて良い印を浮び上がらせています。

安永七年(一七七八)五月八日、生きていれば百七十一歳になります。孫である私が書し、銘を刻み、奥書とします。

下野国那須郡亀山萬亀山金和の主人寛瑞翁

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